次はどんな声かけをしようか…
本人が動きやすくなる環境は何だろう
私にできるサポートは何だろう
そんなふうに、自分を責め続けてしまうことはありませんか。
反省することや、自分にできる改善点を探すことは大切です。
でも、それがいつの間にか、自分の人格を否定し続けることに変わってしまうことがあります。
私はそれを、自己モラハラのようなものだと感じています。
この記事では、自責思考・課題の分離・モラハラ体験・不登校親の自責について、自分の経験を振り返りながら考えてみたいと思います。
自責思考は本来、成長のためのもの
企業研修などでよく使われる「自責思考」という言葉があります。
自責思考とは、失敗や問題が起きたときに、自分にできる改善点を探し、次に活かそうとする考え方です。
他人や環境のせいにするのではなく、
と考える姿勢は、確かに成長につながります。
私自身も、自責思考そのものは悪いことだとは思っていません。
不登校の親として、
実際、何か問題が起きたときに、改善できる部分まで全て他人や環境のせいにしてしまえば、自分自身の成長も止まってしまいます。
だから私は、自責思考そのものを否定したいわけではありません。
でも、自責思考には落とし穴がある
一方で、自責思考が強すぎると、自分を責め続ける方向へ向かうことがあります。
本来は改善のための思考だったはずなのに、
- 私が悪い
- 私のせいだ
- もっと頑張らなければ
- 普通の親ならできるはずだ
へと変化していく。
それは反省ではなく、人格否定です。
改善策を考えるのではなく、自分自身を攻撃することが目的になってしまう。
私はこれを、自己モラハラと呼んでいます。
自分で自分に、
まだ足りない。
もっと我慢しろ。
お前が悪い。
普通はできるはずだ。
と言い続ける状態です。
自責思考は、本来は成長のために使うもの。
でも、使い方を間違えると、自分を傷つける道具になってしまうのだと思います。
アドラー心理学の「課題の分離」
そんな時に役立つ考え方として、アドラー心理学の
「課題の分離」があります。
簡単に言えば、
それは誰の課題かを考えること
例えば、
- 子どもが学校へ行くかどうか
- 夫が機嫌良く過ごすかどうか
- 相手が自分をどう評価するか
- 周囲が自分をどう見るか
これらは、自分が直接コントロールできるものではありません。
私たちにできるのは、サポートしたり、働きかけたりすることだけです。
結果そのものを背負うことはできません。
頭では分かる。
でも私は長い間、それができませんでした。
相手の機嫌も、相手の言葉も、相手の不満も、全部自分が何とかしなければいけないような気がしていました。
モラハラ関係は境界線が曖昧になる
モラハラ加害者と被害者の関係性は、どちらか一方だけの問題ではなく、境界線が極端に曖昧になっていく関係だと思います。
ただし、その意味は全く違います。
加害者は、相手の思考や行動を操り、。
一方で被害者は、相手の感情を拾いに行き、先回りして意見を汲み取ろうとすることで境界線を越えてしまいます。
加害者は支配のために境界線を越え、被害者は生き延びるために境界線を越える。
同じ「境界線が曖昧」という状態でも、その意味はまったく違うのだと思います。
私は葛王の機嫌を毎時間うかがっていた
私は毎時間のように変わる葛王の機嫌をうかがっていました。
怒られないように、責められないように、不機嫌にさせないように、文句を言われないように…
先回りして動くことが当たり前になっていました。
葛王は不機嫌を振りまき、人格を否定する言葉で私を萎縮させます。
人は萎縮すると、正常な思考が働きにくくなります。
気づけば、我慢や忍耐が日常になっていました。
離婚は頭にありました。
でも、
いつまで我慢するんだろう、私……。
と、どこか他人事のように考えていました。
意識が天井近くに飛んで、自分自身を眺めているような感覚。
今思えば、軽い乖離状態だったのだと思います。
職場で社会とのつながりを持ち続けていた私でさえ、長いこと抜け出せませんでした。
むしろ、稼ぎ頭にさせられていたからこそ、生活を回し続けながら支配の中にいたのだと思います。
だからモラハラによる支配は、
- 嫌なら離れればいい
- 境界線を引けばいい
- 課題を分離すればいい
そんな理屈だけで解決できるほど単純なものではありません。
支配される関係の中では、自分の感覚そのものが少しずつ削られていくのです。
不登校の親も、自分を責めやすい
私は不登校の親にも、似た部分があると感じています。
不登校は本当に孤独です。
不登校家庭同士の交流は取りづらいし、支援先があったとしても、継続的に伴走してくれる人に出会えるとは限りません。
学校。
病院。
相談機関。
支援教室。
放課後等デイサービス。
いろいろな場所はあっても、家庭ごとの状況を整理しながら、親子に寄り添って並走してくれるコーディネーターに辿り着ける家庭は希少だと感じます。
そして何より、不登校は努力したから結果が出る世界ではありません。
親が頑張っても、
- 学校へ行けない日がある
- 朝になると体調が崩れる日がある
- 予定の前に不安が強まる日がある
- 外出しようとすると動けなくなる日がある
- 昨日できたことが今日はできない日がある
どうにもならないことが多いのです。
すると人は、一番責めやすい存在を探します。
それが自分です。
育て方が悪かったのかな。
私がもっと早く気づいていたら。
私が母親失格だから。
私がもっとちゃんとしていれば。
そんなふうに考えてしまう。
でも、それは改善ではありません。
自分への攻撃です。
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自己モラハラは、自分自身への支配
私は自己モラハラとは、自分自身への支配だと思っています。
モラハラ加害者が相手を支配するように、自分で自分を支配する。
もっと頑張れ。まだ足りない。お前が悪い。我慢が足りない。普通の親ならできるはずだ。
そうやって、自分に言い続ける。
それは反省ではありません。
ある意味、自傷行為に近いものだと思います。
外側にいた加害者がいなくなっても、内側に加害者の声だけが残ってしまうことがある。
だからこそ、
- これは反省なのか
- それとも人格否定なのか
- 改善策を考えているのか
- ただ自分を責めているだけなのか
を分けて考える必要があるのだと思います。
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完璧な人なんていない
以前、どこかでこんな言葉を見かけました。
ハンバーグでさえ嫌う人がいるのだから、万人に好かれようなんて無理な話。
SNSだったか、本だったか忘れてしまいましたが、その言葉が妙に心に残っています。
いや、本当にそう。
ハンバーグですよ?
子どもから大人まで大人気のハンバーグでさえ、
- 嫌い
- 苦手
- 食べたくない
という人がいる。
それなのに、
みんなに好かれる私♡
なんて滅相もございません(笑)
モラハラの中にいた頃の私は、
- 怒られないように
- 嫌われないように
- 不機嫌にさせないように
- 相手の期待から外れないように
いつも相手の機嫌を気にしていました。
不登校の親になってからも、
- 周囲からどう見られているか
- ちゃんとした親だと思われているか
- 甘やかしていると思われていないか
- 母親として間違っていると思われていないか
どこかで気にしていた部分があります。
でも今は、
- 合わない人はいる
- 嫌う人もいる
- 誤解する人もいる
- 分かり合えない人もいる
- それは仕方ない
と思えるようになりました。

もちろん、わざわざ嫌われたいわけではありません。
できれば好かれたい(笑)
でも、
全員に好かれることを目標にしなくなった。
それだけで随分気持ちが楽になりました。
相手が私をどう思うかは、相手の課題。
私の課題は、自分が納得できる生き方をすること。
最近はそんなふうに考えています。
私が意識するようになったこと
今でも私は自分を責めることがあります。
でも、そのたびに少し立ち止まるようになりました。
①それは誰の課題だろう?
相手の感情。
相手の評価。
子どもの選択。
周囲の反応。
私が影響を与えることはできても、コントロールすることはできません。
もちろん、親としてできることは考えます。
声のかけ方を工夫する。
環境を整える。
必要な支援を探す。
本人の負担を減らす。
でも、最終的な結果まで私が背負うことはできません。
それは冷たいということではなく、責任の範囲を正しく分けるということなのだと思います。
②反省と人格否定を分ける
「次はどうしよう」
これは反省です。
でも、
「私はダメな人間だ」「母親失格だ」「全部私のせいだ」
これは人格否定です。
同じ自責に見えても、まったく違います。
反省は、次の行動につながります。
人格否定は、自分を動けなくします。
だから私は、自分を責め始めたときに、
これは次につながる考え方だろうか?
それとも、ただ自分を傷つけているだけだろうか?
と考えるようにしています。
③友人に言う言葉を自分にも向ける
もし友人が同じ状況だったら、私は何と言うだろう。
そう考えることがあります。
きっと、

なんて言わないと思います。
多分、

と言うと思います。
それなら、自分にも同じ言葉をかけていいはずです。
自分にだけ厳しすぎる必要はない。
自分も、大切に扱っていい存在なのだと思います。
④万人に好かれようとしない
ハンバーグでさえ嫌う人がいる。
そう思うと、人間である自分が全員に好かれるなんて、そもそも無理な話です。
誰かに嫌われるかもしれない。
誰かに誤解されるかもしれない。
誰かに批判されるかもしれない。
それでも、全員に合わせ続ける必要はない。
合わないなら合わないで、しゃーない。
そう思えるようになってから、少し気持ちが楽になりました。
まとめ
自責思考は悪いものではありません。
改善や成長のためには、必要な考え方だと思います。
でも、自責思考が人格否定に変わった瞬間、それは自己モラハラになります。
大切なのは、
- 自分の責任と他人の責任を分けること
- 自分が変えられることに力を使うこと
- 変えられないことまで背負わないこと
- 反省と人格否定を分けること
- 万人に好かれようとしないこと
私は今でも自分を責めることがあります。
それでも以前より、
それは本当に私の課題だろうか
と立ち止まれるようになりました。
昔より少しだけ、自分を守れるようになった気がしています。
自責思考は、成長のために使うもの。
自分を傷つけるために使うものではないのだと思います。
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この記事は、モラハラ離婚と子どもの不登校を経験した私自身の振り返りとして書いています。
同じように自分を責め続けている方が、少しでも「これは全部自分の責任ではないのかもしれない」と立ち止まるきっかけになれば嬉しいです。
❀moyu❀